世に出回っている葬儀のマナーに関する情報は、細かく詳しすぎると思います。
実際の葬儀の現場で必要のない作法もたくさん記載されています。
このサイトでは、葬儀の現場の実勢に即して、
- 有るに越したことはないが、無くても住んでしまう物
- するに越したことはないが、しなくても問題ないこと
という視点でまとめました。
迷ったら「御香典」
通夜、葬儀持っていく香典ですが、
■御霊前
■御仏前
■御香典
どれにしたらよいか迷ったら、とりあえず御香典にしておけば間違いはないです。
それはなぜか?説明します。
四十九日間はこの世にいることが許されている
人は亡くなったら四十九日間はこの世にいることが許されているそうです。
その間に家族や友人に別れをしたり、執着を断ち心境を整理して、あの世へ旅立つ準備をする。
――それが四十九日の本来の意味です。
「ご霊前」と「ご仏前」
そもそも、インドのお釈迦様(ゴーダマ・シッダールタ)は、修行を重ね心を磨いていけば、だんだんと仏に近づいていけるということを説いていたはずなのですが……、
時代が下り、誰でも死んだら仏になる、修行しなくてもいいというイージーな宗派が現れてきました。たとえば浄土宗(真宗)系統ですね。
現在の多くの人の認識は、四十九日を過ぎたらあの世に旅立ち、たとえ悪人でも邪な人間でも「仏になる」という考えが一般的でしょう。やはり浄土宗(真宗)系統は一般庶民の信心を集め大きく広がりましたからね。ちなみに統計上、いちばん信徒数が多いのは浄土真宗本願寺派です。
つまり、
亡くなってから四十九日間 霊としてこの世に別れを告げる間 | 御霊前 |
四十九日を過ぎる あの世に旅立つと「仏さん」になるという認識 | 御仏前 |
四十九日を境に変わるという考え方です。
亡くなって四十九日前でも過ぎても、肉体が無くなって霊としての存在であることは同じではないか?と突っ込むのはやめておきます。現代の慣習ではそのようになっています。
浄土真宗はちょっと違う!
もともとの仏教は修行ありき、家を捨て僧団に入り、そこで修行生活をする。托鉢に出かけるとか、禅定して心を見つめるだとか、仏陀の教えを人々に説いて回るとか……いろいろと修行、活動をするものです。
しかし浄土(真)宗に限って言えば、文字が読めない、難しい経文が理解できない人、厳しい修行に耐えられない人でも信心さえ起こせば、南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる、阿弥陀様がお救いくださるという考え方です。
「狭き門」ではなく、誰でも受け入れる「広い門」を持った宗派とも言えます。
浄土真宗は修行、努力を重ねる、自力でガンバルというよりも、阿弥陀様に全てをゆだねて助けていただくというような他力(阿弥陀様のお力)を頼む考えです。
死んだらスグに阿弥陀様に救われて「仏」となるという考え方なので、通夜の際でも「御仏前」として香典を出します。「御霊前」の袋は使いません。
浄土真宗にこだわっている方ならそのようにされることが習わしとしては正しいでしょう。
(開祖の親鸞聖人がそのようしろ、と言ったわけではないと思いますけど←余計なことですけどね)
ちなみに、私は「修行しなくては仏に近づけない」という考えが本来のお釈迦様の教えであると思うので「修行しなくていい、南無阿弥陀仏と唱えればいい」という浄土(真)宗系統は仏教界の異端だと思います。
しかし、浄土(真)宗系統は仏教の敷居を低くした、無学で字を読めない人、厳しい修行に耐えられない凡人でも「救われる」という道を拓いた功績は偉大だと言えます。
しかし、実際はそこまでは気にしていない
だからと言って、浄土真宗の葬儀に「御霊前」の袋で香典を持って行ったとしても「けしからん!」「非常識だ!!」などと顰蹙を買うことはないです。
そもそも会葬者には様々な宗派の人がいますし、香典を持って弔問にいらしていただいただけで喪主は感謝、感謝ですから。
それに実際の葬儀式場の受付で、受けとったものが「御霊前」か「御仏前」かを厳密に気にかけている人を見たことがありません。
でも、浄土真宗の僧侶の前で「どっちでもそれほど大きな問題ではない」なんて言ったら、きっと気を悪くされると思うので、そこのところは注意!です。
それと浄土真宗では「清める」ということをしません。それについては話が長くなるので、また別の項で
だから「御香典」が無難な選択
葬儀式場に行く前に、あらかじめ宗派を調べる、確認するような人は少ないでしょう、全くいないとも言えませんけどね。
御霊前では先様が浄土真宗だと使えない。(実際は受け取った香典の表書きをそこまで細かく気にする人も少ないとは思いますが……)
「葬儀式場に出向いたら神道の葬儀だった」という場合は本来は御玉串料となりますが、そうとは知らずに自分がもって行ったものが「御仏前」よりは「御香典」の方が通りがいい、なんてったって「仏」ではなくて「神」ですから。
というわけで御香典は意味が広いので無難なのではないか、迷ったら御香典にしておいたら良いのでしょうという話でした。
香典袋 表と中に書くこと
だいたい上の図のように書きます。
市販の香典袋にはあらかじめ住所や金額を記す枠があるので、それに従えば良いだけのことです。
とあるフィリピーナの話
余談ですが、以前、フィリピン人の方が外袋の表に自分の氏名を書いて出しているのを目撃したことがあります。それを見て「そうか、そういう誤解をすることもありえるな……」と思ったことを覚えています。他の国の習慣、作法はわかりづらいですね、そもそもフィリピンに香典という習慣はあるのでしょうか?
薄墨で書かなければならないのか?
薄墨を使う意味
- 悲しみのあまり涙で墨が薄くなった……。
- 急な知らせを受け、墨をする間もなく駆けつけた。
- 悲しみのあまり手に力が入らない……。
薄墨は悲しみの気持ちを表すとされています、
だから、手元にあるのなら、すぐに手に入るのなら使った方が良いです。
それがマナーだともされていますからね。
実際は使っていない人も多い
御香典を袱紗に包んで、薄墨を使って記すというようなキチンとマナーにのっとった方もそれは、いらっしゃいますが、
普通のサインペン、またはボールペンで書いて出す方が多いですし、それで特に恥ずかしい思いをすることもないです。薄墨の筆ペンがないからといってわざわざ買いに行くということのほどでもない、余程、大切な相手は別として。
香典袋を式場の受付に出すと、たいていの場合、すぐに中身の現金を抜き出されて袋と別にされてしまいます。チェックされるのは氏名そのものと金額なので、薄墨であるかどうかなど気にかける人はいません。
残念なことですが、香典袋は役目を終えたらそう長いことはなく廃棄されます。そんなことを気にするよりも会葬者の氏名を書く帳面やカードにキレイな読みやすい丁寧な字を使うことに気を使った方が良いです。
新札は使ってはいけないのか?
新札を使ってはいけない意味
新札を香典として出すと以前から用意していたような感じを受けるからやめた方が良いと
マナー事典には書いてあります。
これもするに越したことはないですが、しなくても済むことの代表だと思います。
マナー辞典の通りにする場合でも、あまり使い古した紙幣ではなく、ほどほどの程度のものを納めたら良いでしょう。
用意する時間がないのなら、そんなに気にすることはない。
受付で香典袋から中の紙幣が抜き取られたら、すぐに他の人の札と混ぜられ、まとめられてしまいます。
そうしたら、もう、誰が誰の札かなんてわからないし、そもそも抜き取る時に「この人は新札を持ってきた、けしからん!」と気に留める人がいるのでしょうか…、香典を整理する係も忙しいですからね。気にしていませんよ。
結論として、いま手元に新札しかない、他の紙幣を用意する時間がないのなら、
それを出しても大して気にされることではありません。
よほど、大切な相手で自分ひとりだけで会って手渡しをするなんて場合を除いては。
金額と袋のグレードは合わせるべきか
合わせるべきだとされている
中身が3,000円なのに豪勢な水引のついた厚みのあるお値段高めの香典袋では不釣り合い、水引が印刷されているような安い袋で充分。その逆に10万円包んでいくのにペラペラの安い袋ではバランスが悪い。
と、マナー事典には書いてあります。
しかし、それほどまで気にすることでもない
受付の係の方はすぐに中身の紙幣を出して現金だけをまとめてしまいます。用意する時間も手間もないのならそんなに気にする程のことでもない。袋の名前と住所、金額以外は気にされていません。
袱紗に包んで持って行かないとダメ?
大切な香典は袱紗ふくさに包んで持参しましょう
大切な香典を袱紗に包んで持っていきましょうとマナー事典には書いてあります。
もうすでに持っているのなら使ってください、特に一対一で渡す場合は格好がつきます、体裁が良いですから。
無ければそれで済む
しかし、わざわざ買って用意することもありません。
だいたいの葬儀式場の受付には芳名カードというものがあり、それと香典を合わせて一緒に出すのです。
受付に出すタイミングでは袱紗から出してある状態です。葬儀式場には家族葬と言えど、数十人が集まるのですから、誰が袱紗に包んで持って来たかそうではないか、いちいちそれをチェックしたり見ている人はいませんから、無ければなくても済むものです。
黒いネクタイのようにどうしても無ければならない、顰蹙を買うというものでもありません。
ただし、繰り返しますが「自分ひとりきり、一対一で大切な相手に渡す」という場合は、全てにおいて完璧な装い、体裁を整えておいた方が良いとは思います。
神道の葬儀「御玉串料」
日本人のほとんどの葬儀は仏式で行われますが、たまに神道の葬儀に参列しなければならないことがあります。その場合「御霊前」でも、もちろん「御仏前」でもなく「御玉串料」という名目で持っていきます。
玉串奉奠とはで仏式では焼香、キリスト教では献花をしたりすることがありますが、これの代りと言えば理解しやすいかもしれないですね。
ちなみに
■通夜≒前夜祭
■葬儀≒葬場祭
■初七日≒十日祭
というような理解で良いでしょう。
御玉串料の袋が無かったら
■御玉串料の袋が手に入らなかったら、無地の封筒に「御玉串料」と書き入れましょう。
■どうしても入手できなくて御香典や御霊前の袋を持って行ったからといって「非常識だ!」と思われることはない、恥ずかしいということの程でもないので問題はありません。
実際の葬儀の現場にはそのような方がたくさんいらっしゃいます。
玉串奉奠たまぐしほうてん
遺族、親族から始め、玉串を神前に供えます。作法があるのですが、気のきいた葬儀社なら玉串奉奠の作法の図を看板にして式場入り口付近などに用意してあります。
最初に奉奠する遺族、親族はきちんと作法にのっとり厳粛に行うべきですが(周囲の眼もあるし)、後の方の方は自分の前に並んでいる方のやり方を見て何となく同じような動作をすれば問題ないです。緊張するほどのことでもありません。
キリスト教「お花料」
キリスト教の場合はほとんどがお花料という名目になります。ほとんど、というのはカトリックの場合おミサ料(変な日本語)という名目になることがあるからです。
しかし、市販のものに「おミサ料」の袋はないでしょう。私は見たことがありません、
お花料の袋がなかったら
キリスト教の葬儀でも、クリスチャンではない方の場合、御霊前や御香典の袋を持参する方はいます。結構な数で。そもそもお花料という名目自体を知らない人もいるでしょうし。
しかし、だからといって「非常識だ」「これは間違っている……」と思いながら受け取っている係の人を見たことがありません。それを特に気にする人はいません、日本人の大多数は寺の檀家ということですから仕方のないことです。
できることならお花料の袋を用意すべきですが、御霊前だからといって恥をかくという程のことでもありません。わざわざ会葬に来てくださった方に対しては感謝しかありませんから。
それと上図のように市販の物が手に入らなかったら、普通の封筒に手書きでも充分通用します。教会の信徒の方(教会員)はそのようにされることが多いです。
教会の葬儀はなるべく遅刻せずに行こう
仏式の場合、式の途中で焼香が始まり、それを済ませたら帰ることはおかしくはない。忙しく時間の無い方の場合、式の途中に来場し受付と焼香だけを済ませて帰る、短時間で義理だけは果たすという方も多く見受けられます。
しかし、キリスト教の場合、焼香にあたるものがありません。
献花が焼香にあたるものだとするならば、献花は式がすべて終了した後に行われるのが普通です。献花をするということで自分の弔意を表したいとするならば式が終わるまで待っていなければなりません。
(ちなみに、キリスト教の葬儀だからといって必ず献花するとは限りません、無意味だと考える牧師さんも少なくはないからです)
それに式の途中から、静かな礼拝堂にドア開けて入っていくと音とともに目立つので、なるべく開式前に受付を済ませ着席しましょう。途中からはとても入りにくい雰囲気になりますから。
以上、香典に関して
有るに越したことはないが、無くても済む物と
するに越したことはないが、しなくても済むことを
挙げてみました。
■繰り返しますが、香典袋の名目、書き方が違ったからといって「けしからん!」「非常識だ!」と非難されることは、まず、ないです。受付でスグに中身の紙幣を抜かれ、いずれ処分されてしまうものですから。
なるべくなら相手の宗派、作法に合わせて持っていくべきですが、時間がないのなら気にする程の事ではないです。
最近の家族葬では……
■ここまで書いてきたことは一般的な受付が設置されている葬儀のことを前提としています。しかし、最近は会葬者が限られた家族葬が増えています。
家族葬の場合、受付がないということは珍しくないので、直接に手渡しとなります。
その場合、
「身内だから、何でもよい、細かいことは気にしない」のか
「一対一の手渡しだから、おろそかにできない」のか
この記事を参考にして、それぞれにご判断ください。
では。
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